武者小路千家

裏千家、表千家は有名ですが、武者小路千家という流派も千家にはあります。三千家と呼ばれる千家の中の一つで、武者小路千家を象徴する茶室は『官休庵』と呼ばれています。

宗家は京都市上京区武者小路通りにあり、所在地が武者小路千家の名前の由来になっています。武者小路千家の家元は、流祖である一翁の諱を受け継ぎ、『宗守』を名乗り、後嗣は『宗屋』、隠居後は『宗安』を名乗る伝統があります。現在の家元は14代目になり、不徹斎・千宗守と言います。

三千家

表千家、裏千家、武者小路千家をまとめて三千家と呼びますが、三千家とは千利休の後妻、宗恩の連れ子、千少庵系統の家で、本家となる堺千家(後に断絶)に対して、傍系になります。

宗旦の三男・宗左が不審庵表千家となり、四男・宗室が今日庵裏千家、次男・一翁宗守が官休庵武者小路千家となって三千家が成立します。

『千家を名乗るのは表千家、裏千家、武者小路千家(の嫡子)とし、二男三男にはこれを名乗らせない』と、表千家7代目・如心斎が定め、裏千家と武者小路千家もこれを了承し、茶道の千家といえば、表千家、裏千家、武者小路千家の三家のみに限定され、分派することはなくなりました。

京都では、藪内家が下京にあったため下流と呼び、上京にあった三千家をまとめて上流と呼び、同じ流儀の三家とされていました。互いに養子を出すなどして三家共同で制度の整備などを行ってきましたが、明治以降になると、それぞれが別流派とみなされるようになっていきます。

武者小路千家の成立

千家は表千家、裏千家、武者小路千家と分かれる以前は、3代目までは1つの流派でした。

4代目からそれぞれの千家に分かれていきます。武者小路千家4代目は一翁宗守で、兄の宗拙同様に千家を出て、吉岡甚右衛門と称して、武者小路にある吉文字屋と言う塗師の養子になっていました。千家を出てはいたものの、3代目・宗旦の晩年には宗左と行動を共にしていて、還暦目前に千家の茶の世界に戻り、塗師の家は中村宗哲に譲り、表千家、裏千家の兄弟らの勧めで官休庵を開き、武者小路千家が成立します。

1666年、一翁は讃岐国高松藩の松平頼重のもとで茶堂として仕えますが、その地位を、年齢を理由に5代目・文叔宗守に譲ります。それ以来、武者小路千家の家元は、高松藩の茶道指南役として仕官しました。

養子で武家出身の7代目・直斎は、表千家7代目・如心斎、裏千家8代目・一燈宗室らと共に家元制度を整え、数多くの門人を受け入れて中興と呼ばれています。

11代目・一指斎が亡くなった明治の頃、養子で幼かった12代目・愈好斎が表千家に引き取られたことで、武者小路千家は一時途絶えてしまいます。表千家に引き取られた愈好斎は、東京帝国大学で国史学を修めて卒業し、武者小路千家を再興します。西洋音楽が好きで、棗に五線譜をデザインした『君が代棗』を好んでいました。

官休庵

武者小路千家の象徴とされる茶室・官休庵ですが、流祖の一翁が造ってから何度か消失し、そのたびに復興を重ねてきました。現在ある官休庵は、1926年に12代目の愈好斎によって建てられたものです。入母屋造りの一畳台目になっていて、柿葺きのひさしがあります。

一畳台目は、お茶の点前に必要になる台目の道具畳と、客人が座るための一畳だけの広さの、切り詰めた究極の茶室になります。

訪れた客人にゆとりを持たせるために、15cm幅の半板が道具畳と客間の間に敷かれています。

床框には桧磨丸太が使われ、高齢者でも使いやすいよう、水屋道庫が完備されています。