千利休

茶道は定められた方法で客人にお茶を振舞う行為のことを言います。元々は『茶湯』や『茶の道』と呼ばれていましたが、江戸初期になって『茶道』と呼ばれるようになりました。わび茶を確立したと言われている千利休は、茶道のことを『数寄道』と呼んでいました。

わび茶の源流

日本でお茶を飲む習慣が始まったのは、平安時代に遣唐使によってもたらされました。現在茶道に使われている抹茶とは違い、半発酵茶であった烏龍茶のようなものであったと伝えられています。当時はお茶を楽しむというものではなく、お茶を薬として捉えていて、必要な分だけ煎じて飲んでいました。そのため、喫茶が根付くことはなく、いったん廃れてしまいます。鎌倉時代に薬として日本に持ち込まれた抹茶が、栽培が普及すると共に茶を飲む習慣も一般的に普及し、室町時代になると、飲んだお茶の銘柄を言い当てる闘茶が流行りました。大名の間では、中国の茶器を使って茶会を開くことも流行しました。わび茶の創始者と言われている村田珠光が亭主と客人との精神交流を重視した茶会のあり方を説き、わび茶の源流につながっていきます。

利休の茶の湯

現在に伝わる茶道を生み出したのは千利休と言われていますが、60歳になるまでは先人の茶の方法をそのまま受け継いだものでした。利休が独自の茶の湯を始めたのは61歳以降になってからのことです。豊臣秀頼に切腹を命じられたのが70歳でしたので、約10年の間で茶の湯を完成させたことになります。

わび茶の発展

利休の茶の湯は、無駄なものを一切省いたもので、茶の湯に使われる道具もそれまでもてはやされていた中国の茶器などではなく、国産の道具を使い、自分で器具のデザインもして職人に積極的に作らせました。それは中国のものとは違って粗末なもので、自分で竹を切って作った道具なども使いました。高麗茶碗などの輸入品も使っていましたが、それまで使われていた中国の高級品とは違い、現地では大量生産されていた雑器扱いの決して高価なものではありませんでした。こうした利休道具は、高価なものではないということでは大変重要なポイントになります。

利休の茶室

千利休は茶室を建築するときにも草庵茶室の創出という、画期的な変革を行いました。それまでの茶室と言えば、四畳半の『座敷』『囲い』『数奇屋』と呼ばれる書院造りの部屋に畳を持ち込んで茶席にするものでしたが、利休は三畳や二畳という、極端に狭い空間の茶室を取り入れ、にじるようにして入るにじり口、下地窓、土壁、五尺床などを工夫し、茶を点てて飲む、お茶だけのために設計した茶室を作りました。

茶室の中の明るさも、土間で囲って必要に応じて窓を開け、必要な場所だけを明るく照らして、暗くしておきたい場所は暗いままでいられるような窓も取り付け、自在な採光ができるようにしました。利休の茶室は、こうした自由さと合理性があり、現代の建築にも大きな影響を及ぼしています。

露地

露地は茶庭とも呼ばれ、茶室に付随している庭園のことを言います。千利休は田園的な、山間的な趣を表現し、農家の藁屋を茶室、露地は山寺への道を表現しようとしていました。茶室だけではなく、通路として使う空間を茶の空間、もてなしの空間として表現したのです。

こうして利休は、茶の湯を客人として訪れた者と共にお茶を楽しみ、退出して行くまでの全ての工程を充実した時間とすることで、茶道を芸術として完成させたのです。

現在でも『利休箸』『利休棚』『利休焼』など、数多くのものに利休の名前が残されていて、茶道だけではなく、日本の文化や伝統にもその足跡を刻むことになりました。