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裏千家

茶道会で多くの門下を持つ裏千家は、千利休から家督を継いだ本家・表千家に対して、分家の武者小路千家と裏千家と併せて三千家と呼ばれています。

茶道人口の半分以上は裏千家と言われ、茶道会には数多くの流派がありますが、最大規模の流派になります。宗家は京都市上京区にあり、表千家の宗家と隣接しています。

三千家の違い

同じ千利休から始まった流派でも、点前の作法は似ていても、やはり違いはあります。裏千家の流儀の特徴は、11代の玄々斎以降で見られる『積極性』です。

茶箱点(茶箱を使って行う点茶)、立礼式(椅子に座って行う茶道)、盆略点、新しい点前を作ることに対しても積極的で、利休の侘びを基本とする三千家の中でも方向性が華やかです。棚の種類の多さ、茶箱の色紙点など、彩りが豊かなものが好まれています。

以下に三千家の特徴を紹介します。

 

裏千家

表千家

武者小路千家

点て方(薄茶)

よく泡立てる

あまり泡立てない

あまり泡立てない

茶筅

白竹

煤竹

煤竹

菓子器

蓋なしの鉢

蓋付きの喰籠

蓋付きの喰籠

袱紗

女性・朱無地
男性・紫無地

女性・朱無地
男性・紫無地

女性・朱無地
男性・紫無地

箱の紐色

深い緑

茶・紺

裏千家の成立

千家の3代・宗旦は三男の宗左に不審庵を譲り、隠居するために敷地内に新しく茶室を建てて、四男の仙叟宗室と一緒に移り住みました。この茶室を今日庵と呼び、この今日庵が宗室に譲られたことで裏千家が成立します。詳しくは表千家のページを参照してください。

仙叟は1642年に、当時すでに隠居していた加賀前田家の前田利常に弛緩して、小松城三の丸の屋敷と二百万石を与えられました。

1658年に前田利常と宗旦が亡くなると裏千家の4代目となり、3年後には前田綱紀に茶頭として仕え、金沢城下の屋敷と百五十万石を与えられ、金沢と京都を往復して精力的に活動しました。

1697年に仙叟宗室が亡くなると、5代目として常叟宗室が裏千家を継承し、加賀藩、伊予松山藩久松家などに仕官し、幕末まで前田家と共に交流を続けていきます。

8代目・又玄斎一燈は、兄である表千家の7代目・如心斎と共に、千家の中興とされています。2人は大衆化していく茶の湯の新たな稽古法として、七事式を制定し、茶道を広めることになりました。茶道の代表格として三千家が語られているのは、千利休の名前だけではなく、8代目・又玄斎一燈の時代に、富裕層の町人らに広く茶道が広まったことも大きな要因の一つと言えるでしょう。

裏千家が主流になったわけ

先にも紹介しましたが、11代目の玄々斎精中は、華道や香道、謡曲にも通じていた人物で、茶箱点や立礼式を創始し、古法だった和巾点を復興させるなど、とても積極的で明朗な人物でした。

立礼式は1872年の博覧会にあわせ、外国人を迎えるために、正座ではなく、椅子に座って行う茶道を考え出したものです。

同じ年には茶道を遊芸とする風潮を批判する『茶道の源意』を著すなどして、幕末から明治へと時代が変動するにことに併せた茶道の近代化への先駆者となりました。

明治になると12代目の放蕩が原因で破産してしまいますが、13三代目の円能斎鉄中によって復興されました。明治23年から6年間に渡って協力者を求めて東京に移り住み、京都に戻ってからも一般に茶道を普及させるために教本を出版したり、機関紙を発行して尽力しました。女学校の教育にも茶道を取り入れてもらったり、教授方針を一致させるための講習会を開いたりと、裏千家の組織化にも精力を注ぎました。

戦後、14代目淡々斎碩叟によって茶道が学校教育にも取り入れられるようになり、クラブ活動などでも裏千家の茶道が教えられるようになります。寺院・神社への献茶・供茶、海外普及への取り組みなど、精力的に活動しました。

また、裏千家では同門組織として『社団法人淡交会』を結成、家元の財団法人化、継続される裏千家の組織化などで、裏千家は多くの茶道人口を獲得することになり、流派別では最大規模の流派となったのです。

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